フォローしているブログで知りました。元々探検文学は好きなので大変面白く読みましたし、角幡さんの別の本もすでに2冊読み始めています。
この本は1845年に北極周囲の北西航路発見のためにイギリスを出発したフランクリン隊129名が極寒の中で飢餓や病気で全員死亡したという壮絶な記録に接した著者が、そのあまりに非現実的な状況に衝撃を受け、自ら追体験することでしか理解できないものがあると考え、冒険家の荻田泰永と共にフランクリン隊がたどったとされる行程をなぞる旅を敢行した、その記録です。思った以上に内容が濃く、著者の作家としての力量を感じさせる本で、講談社ノンフィクション賞を受賞したのも納得です。
極地探検に関して、何頭もの犬が人と荷物を乗せたソリを引きながら疾走するというイメージしかなかった私は、100キロもの荷物を満載したソリを人力で引くということにまずは衝撃を受けました。さらに、海に張った氷は平らではないということも驚きでした。海水は波立ちながら凍ってゆくため、分厚くなるまでは引っ張られては割れ、寄せる力で盛り上がる氷となる、ということを繰り返すので、大小の氷塊がぼこぼこと突き出たようになっているそうです。陸地に海水がぶつかって高い波を立てる岸辺には山のような氷の壁が出来ることから、特にカナダ北東部の群島エリアではその傾向が顕著となり、海氷の状態は極めて悪く、そこを旅する困難さが容易に想像されます。私の最初のイメージは、おそらく多くの日本人が同様のものを持っていると思いますが、南極大陸における極地探検から来ているのです。
著者は探検ライターとして活動を始めた当初、自分はあちこちの秘境には行きたいが極地には行きたくないと思っていたそうです。過酷すぎて足を踏み入れるところではないと感じていたとのこと。しかし昔の探検家の著作や繰り返し北極探検を行なっている荻田の話からフランクリン隊の悲劇に興味を持ち、北極探検敢行の気持ちを抑えられなくなりました。実際、18世紀とはいえ極地探検で亡くなることは稀であったため、フランクリン隊が忽然と消息を断ち何度も派遣された捜索隊によってもたらされた「隊員全員死亡」という報告は、当時でもかなり衝撃的かつ不可解な事件として扱われたらしいです。
角幡と荻田の旅はフランクリン隊の艦隊が凍りつく海に閉じ込められた後、下船して生還への旅を始めたであろう地点から始まり、後年発見されたいくつかの痕跡やイヌイットの目撃証言を辿りながら、それらが途絶えた地点を超えカナダ北限の町で終わります。途中、想像を絶する寒さと氷、そして飢えへの恐怖との戦いはため息をつきながらでないと読み進めることはできませんでしたが、角幡の文章力とそのやや場当たり的で楽観的な性格に起因するエピソードが挟まれることで、全体としてはとても面白い読み物になっていると思いました。また、旅の終わり、季節は夏へと変わりつつある中で、ツンドラの、おそらくほとんど誰も見たことがない小さな湖の光景のなんと美しいことか。繰り返し読んでしまいました。
旅の過程で角幡は様々に思索しますが、私も同じようにあちこちで「私なら、、」という思考に嵌り長時間考えることがしばしばあり、それも含めて楽しい読書体験でした。そもそも、それが自発的なものにせよ、結果的なものにせよ探検が好きなんですね。私の場合、動物を放り出して秘境に行くわけにはいかないのでやりませんが、フルマラソン、トレイルランニング、スケートに挑戦する気持ちの根底には同じ精神があると思いました。仕事として研究を選んでいるのも未知の場所に飛び込んでいくことが好きでたまらないからなのかもしれません。
伝記を除くと、過酷な旅を描いたドキュメンタリーに衝撃を受けた最初の本は吉村昭の漂流だったと思います(読書時期不明)。これは探検ではなく、江戸時代に起きた遭難とその生還を描いたものですがとても面白いです。
自分には物心ついた頃から「知恵と工夫とバイタリティで生き延びなければならない」という気持ちが強くあり、それができるようになることが大人になるということ、という感覚は今も続いています。例えば料理や裁縫も、単なる趣味や好きなことではなく、ましてや女子力アピールなどではなく、いざという時に生き延びるために有効なツールだから技術を磨いているというのが自分の中では一番しっくりきます。そのいざという時がいつなのか、なんなのかは全くわかりませんが 笑